東洋医学的日々雑感15 「『論語』について最近考えてみたこと(1)」

東洋医学の理論や実践方法は、約二千年以上前に系統的に書物に記述されました。
それが『黄帝内経』です。
それからいままでのあいだずっと読み継がれ、様々な注釈が加えられてきています。
もちろん机上の空論ではなく、実際に患者さんの病を治すために使われてもきたわけです。
 
漢文で書かれているから、もちろん難しいです。
はじめのうちは書き写して伝えられてきたので、写し間違いもあるようです。
当時のひとびとが何を言おうとしていたのか、よくわからないところもたくさんあります。
ですが、東洋医学に携わる人たちがこれを読むことには、とても重要な意味があると思うんです。
 
そのあたりについて、『論語』をきっかけに考えたことを私見たっぷりに書いてみました。
今回はちょっと長いです(笑)ので、たぶん数回に分けてお送りすることになると思います。
 
 

1.『論語』について、最近考えたこと


 
ここにこれから書くことは、個人としての『論語』をとおしての体験談です。
特に前置きなどは必要ないと思いますので、感じたことをそのまま書いていくことにしますが、
ひとつ忠告しておくと、私自身はとても感動した体験ですけれど、
それがそのまま読者に伝わるかどうかについて、少なからず不安があります。
 
なるべく伝わるように書いていくつもりですが、腑に落ちない方は途中で止めてもらって構いません。
ということで、さっそく始めていきましょう。
 

1-1.『生きるための論語』を読んで…。

2、3年前に、安富歩の『生きるための論語』(ちくま新書)を読みました。2012年に出版された本です。
安富氏は現在、東京大学東洋文化研究所の教授で専門は経済学、『論語』については門外漢ということになります。
もっとも、彼がこの本を書くために読んだ文献リストの数々(その数は50を超える)を見てみると、決して門外漢とは呼べないのですが……。
 
この本は非常にオモシロかった。
そんなひと言で片付けるにはもったいないので、私にとってどのあたりがどのように面白かったのかについて、まずは書いてみることにします。
しばらくは読書感想文ということになります。
 

・学びて時に……

論語の冒頭「学而篇」というところに有名な文章があります。
「『論語』は読んだことはないけれどもこれだけは知っている」という人が多い、あの文章です。
まずは原文、書き下し文、現代語訳を引用しておきましょう。
 
子曰、学而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎
子の曰(ノタマワ)く、学びて時にこれを習う、亦(マ)た説(ヨロコ)ばしからずや。
朋(トモ)あり、遠方より来たる、亦た楽しからずや。
人知らずして慍(ウラ)まず、亦た君子ならずや。
(先生がいわれた、「学んでは適当な時期におさらいする、いかにも心嬉しいことだね。
〔そのたびに理解が深まって向上していくのだから。〕だれか友だちが遠い所からもたずねて来る、いかにも楽しいことだね。〔同じ道について語り合えるから。〕
人が分ってくれなくとも気にかけない、いかにも君子だね。〔凡人にはできないことだから。〕)
 
書き下しと訳は日本の中国哲学・中国思想史研究の碩学、金谷治先生のものです。(岩波文庫の『論語』)
この部分に対する安富氏の解釈がとても奮っているので、少し引用します。
 
——-以下引用
このわずか三二文字の中に、『論語』という巨大な宇宙を支える基本思想が凝縮されている。
その基礎概念は言うまでもなく「学」と「習」とである。
(中略)
伝統的な解釈では、「学」は何かを教えてもらう、勉強することであり、
「習」は練習したり、復習したりすることであり、
「人不知」は他人が自分を認めてくれない、という嘆きである。
しかし私は、このような解釈ではしっくりこない、と思う。
というのも、私はそもそも勉強が嫌いだからである。
その上、復習や練習はもっと嫌いであり、そんなことをやっても、よろこばしくなったりしない。
それに、人が認めてくれるかどうかという問題に言及している段階で、あまり立派な感じがしない。
——-引用終わり
 
ここまでが問題提起の部分になります。
  

・共感できたこと

この問題提起、私が特に共感したところなんです。
復習、練習嫌いなのは私もまったく同じですし、確か中学生ぐらいの頃から論語のこの文章のことを、
いやこの文章に対する一般的な解釈について、到底うなずけないと思っていたからなんです。
だから「そうそう!」と読みながらつい声が出てしまいました(笑)
 
このあと安富氏は「学」のあやうさについて『論語』の他の文を引き合いに出して論を進めます。
感覚的に納得できないことを、理詰めで解き明かそうというわけです。
 
子曰、学而不思則罔、思而不学則殆
子曰く、学んで思わざれば則ち罔(クラ)し、思いて学ばざれば則ち殆(アヤウ)し
(先生は言われた。学んで考えなければ、とらわれてしまう。考えるばかりで学ばなければ、あやうい。)
 
まずは「学」について。
確かに学ぶことは大切だが、学ぶだけではいけない。
学んでも考えないと何かにとらわれて身動きがとれない状態になってしまう。
 
学ぶとは、そういう危険性をはらんだ行為なのだと他の篇に書かれているのを論拠に、
だから孔子ともあろう者が無反省にただ復習したり練習したりすることを薦めるとは思えない、というのです。
 
だとすれば「習」とは何のことなのか? という疑問が生じます。
論語には「習」という字の用例があと二回しかない。
安富氏はその二つの用例での「習」の意味を検討し、「習とは後天的に身につくことだ」と結論づけます。
 
とすれば「学而時習之。不亦説乎」の意味は、
何かを学んで、それがあるときハタと理解できて、しっかり身につくことは、よろこびではないか。
ということになる。
「私はこれに完全に同意する」と安富は書いています。
 
この解釈の部分を読んで、私は心の底から嬉しくなったのをいまでも覚えています。
この論理的な展開、解釈もさることながら、自身の感覚と照らし合わせて納得できるかどうかを基準にするという態度。
これこそ東洋医学に必要な感覚だと感じたからです。
 
論理的である前に、自分の感覚で腑に落ちることが大切なんですね。
そんなふうに東洋医学をとらえ、実践し、仲間とその感覚を共有することができないものか? 
それ以来そんなことを漠然と考えるようになりました。
 
この話、この先は少し長くなりますので、今回はここまでにしておきます。
 
 

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