東洋医学的日々雑感16 「『論語』について最近考えてみたこと(2)」

前回から書き始めた「『論語』について最近考えてみたこと」の2回目です。
まずは安富歩氏の「生きるための論語を読んだ感想を書きましたが、まだ前回の続きがあります。
例の「学びて時にこれを習う」の学而篇の解釈でした。
さっそく続きをみていきましょう。
  

なぜ友が遠方から訪ねて来るのか?

この部分については、前回紹介した「学びて時にこれを習う」以上に違和感がありました。
原文、書き下し文、現代語訳はこうです。
 
有朋自遠方来、不亦楽乎
朋(トモ)あり、遠方より来たる、亦た楽しからずや。
だれか友だちが遠い所からたずねて来る、いかにも楽しいことだね。
 
「学」と「習」の話のあと、突然遠方から友がやってくる。
これに違和感を持たないひとがいるんだろうか?
唐突すぎると感じるのはおかしいことなのだろうか?
「孔子って変な人だなぁ」―― 中学・高校時代の私はずっとそう感じていました。
 
やはり安富氏も同じだったんです。
いやホントに良かった!
引っかかるのはやはり、「友がやってくる」の部分の解釈ですね。
 
安富氏の意見はこんな感じです。
「私は、これを学習の過程の比喩的表現だと解釈する」と。
 
この意味はつまり、「学」によって何かを身につけていく段階では学んだことの本質とはまだ出会えていない。
これがキチンと身についた段階、つまり「習」になったときに本質と出会うことになる。
すると旧友が突然、遠くから訪ねてきてくれたようで、楽しくて、嬉しくてたまらない感じになる、ということなんです。
 
 

人が自分のことを分かってくれないからって・・・?

そうするとその次の部分の解釈にも影響してくるわけです。
再掲すると、以下の部分です。
 
人不知而不慍、不亦君子乎
人知らずして慍(ウラ)まず、亦た君子ならずや。
人が分ってくれなくとも気にかけない、いかにも君子だね。
 
従来の解釈のように「人不知」を
「人が(私のことを)知ってくれない」というように「私のこと」を恣意的に加えるのではなく、
「人が知らない」とそのまま読むべきだと言っています。
 
では「知らない」の対象となるのは何かというと、ずっと議論しているのは「学習の喜び」についてだし、
第二文の「朋(友)」もまたこの「学習の喜び」の比喩として解釈したわけだから、そのまま対象が変わらないはずで、
つまり「学習の喜びを人が知らない」という意味になる。
 
「慍」については、つくりが「溫(温 )」と同じで「熱くなる」という意味だから、
「うらむ」というよりは、心が熱くなるという意味に取っています。
 
そうするとこの部分は、
「人が(学習の喜びを)知らないのを見ても、憤慨しない」ということになります。
 
とかく何かを学習した人が陥る愚かさは、まだ知らない人を見下してバカにすることです。
そんなことをしないという人は君子だというのです。
うーん、素晴らしい!
 
 

学而篇全体の解釈は・・・

安富氏の『論語』第一学而篇全体の解釈を私なりの言葉で表現してみると、以下のようになります。
 
学んだことがある程度時間がたったときに、しっかり身についていたんだと気づいたときは嬉しい。
ちょうど、古い友人が久しぶりに訪ねて来てくれたときみたいな感じだ。
もちろん、こういった楽しみを知らない人たちもいるけれど、
そんな人に対してイライラしたりはしない。そうなれれば立派だよね。
 
どうでしょう? 腑に落ちましたか?
 
安富氏はかなり長い時間をかけて、「学習」という概念をもとに『論語』を読むべきだと気づいた、と書いています。
しかも学習過程が開かれていることが、君子の条件であるといえます。
孔子の考えでは、君子が社会の中枢を担っていることが、社会秩序を形成するための基礎だとしています。
 
そういう意味で学習の喜びを分かち合いたいという意味も込めて、この文章を書いています。
今回はこのあたりで。
まだまだ分かち合いは続きます(笑)
 
 

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